basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

イノベーションとは結局何なのか? -その本質は組み合わせか?-

 人間の記憶は、既存の要素から新しい要素を生み出すことができる。人が何か新しいことを考えつく瞬間、外部から情報を取り込むことはできない。考えつく瞬間は文字通り瞬間なのであって、それと情報の取り込みを同時に行うことはできない。
 
 新しいことは、原理的に既存のものをもとに生み出されるしかないのだ。
 たしかに、何かしら新しい情報がインプットされて、それをもとに新しいことを思いつくということはあり得る。しかしそれは、新しい情報をいったん自分の中に取り込んで、すなわち既存の要素にしたのちに、新しいことの材料にするのである。
 
 さもなければ、新しい情報をそのまま「新しいこと」と認識しているということになるが、それは新しいことを思いついているとは言えないだろう。
 
 では既存の要素から、どのようにして新しい要素が生み出されるのか。
 
 それは、既存の要素を何らかの意味で組み合わせることによってでしかない。
 
 たとえば新しい文章を生み出すときは、文字という既存の要素が組み合わされている。また従来の要素を否定したり、一部を取り除いて新しいものを生み出す営みも、従来の要素と「否定」という既存の操作を組み合わせていると見なせる。
 
 このように、新しいものは常に、何らかの意味での既存の要素の組み合わせによってしか生まれないのではないか。新しいというのは、既存のものに対して新しいのである。つまり、新しさというのは本質的に相対的な概念である。
 
 そして、新しいものAのなかった世界に、そのAが生まれているからには、AはAのなかった世界の構成要素つまり既存の要素から成り立っている。
 
 つまり、新しいものが既存の要素の組み合わせによって生まれるというのは、経験的に観察される事実というよりは、論理的にそれ以外あり得ない事実である。
 
 新しいものは、メタ的な組み合わせによる次元の引き上げと、それに続く次元の引き下げによって生まれるらしい。組み合わせる、というのは次元の引き上げを伴う操作である。
 
 ある要素と別の要素を組み合わせるということは、それらの要素が存在している領域から、そうでない領域への引き上げが起こっているということである。
 
 しかし、新しいものは、直ちに「既存の要素」の次元に引き下げられる。それまで既存だったものと、いま生まれた新しいものの間には、質的な違いはない。ともにすでに「既存の要素」であって、次の新しいものを生むための材料という点で何ら違わない。
 
 あるいは、逆に考えてみても良いかもしれない。
 
 世界には数多の既存の要素が飛び交っていて、それらは自らの力学にしたがって絶えず合従連衡を繰り返している。
 
 そうした運動の産物のうち、私たちにとって未知だったものを、私たちが「新しいもの」と呼んでいる。そうとも考えられる。
 
 人が要素を操作しているのではない。要素が人を操作している。
 
 この「要素」には、論理的にはあらゆるモノを含むことができる。原子も言葉も貨幣も、すべて「要素」である。
 
 これらの要素の運動原理はさまざまであるが、それをいくつかの特性で表現することはできる。
 
 まず一つ目は、連続的性質と分節的性質である。前者の特性を持つ要素の代表格は実数、貨幣である。一方後者の代表格は記号、人格、経営組織である。