basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

イノベーションの行く末 -ゴミ屋敷の中のゲームキューブ-

 闇金ウシジマくんを読んで、イノベーションの行く末を考えさせられた。

 
 この漫画で心に来たことはいくつもある。しかしイノベーションという現象との関連で言うと、特に来たのはゴミ屋敷の中のゲームキューブ、という光景だった。

 

 ゲームキューブの開発者たちは、今までよりもっと面白い遊びを作ろうと必死に努力したはずなのだ。どんな製品開発ストーリーを読んでも、そこで語られているのは開発者の夢や楽しさ、ワクワク感だ。この製品を出せば、世の中が少しは良くなる、面白くなる、そんな希望に満ちている。
 
 僕は経営学を勉強し始めて製品開発者の生の声に触れるまで、彼らが何を考えて開発しているのかよく分からなかった。もちろんこういうキレイな動機だけでなくて、売上を伸ばしたい、ライバル企業に勝ちたい、社内で出世したい、というようなドロドロした動機もあるのかもしれない。
 
 それでも、キレイだろうがドロドロだろうが、そこには開発者の熱意があるのだと思う。
 
 しかし、ゲームキューブの行く末はどうだろう。ゴミ屋敷には、生きることへの絶望、堕落、倦怠しかない。社会の最底辺の仕事につき、ヤクザとつながっている地元の先輩にいびられ、美人局に一枚噛み、闇金でカネを借りる。生きる充実感や熱意はどこにもない。
 
 そういう連中が、他にやることがないというだけで、ゲームキューブで遊ぶ。目は死んでいる。
 
 同じゲームキューブという製品に関わる人間が、上流と下流ではなぜこうも違うのだろう。このあまりの落差は何なのだろう。
 
 ふつうイノベーションの帰結を論じるときには、「全く新しい市場を開拓した」「顧客に新しい価値を提供できた」という、大まかな言い方しかしない。誰が、どんな目をして、そのイノベーションを享受しているか、というようなことはあまり考えない。
 
 ゴミ屋敷の中のゲームキューブというのは、かなり極端な事例ではある。しかし、目が死んだ人にイノベーションを送り届けて、目が死んだまま消費されるとしたら、何のためのイノベーションなのか。
 

 イノベーションについて論じるなら、それが社会の最底辺で消費される光景も想像しなくては、嘘だと思う。