basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

新しい概念生成というイノベーションは、どのようにして発生するのか?

 一応「新しい概念は、それを生み出そうとして生まれたものではないというパラドックスについて」http://basils.hatenablog.com/entry/2013/06/14/012107の続き。

 

 新しい概念は、それを生み出そうとして生まれるものではない。概念A誕生以前には、定義上概念Aは存在していなかった。したがって、概念Aの誕生以前に概念Aを生み出そうとして呻吟することはできない。

 

 たしかに、何かしら収まりがつかなくてムズムズするという感触があり、それを自分の手持ちの語彙では説明できない、という感覚はこの時点でもあるだろう。そしてそのムズムズが、今までにない概念を生み出そうとする原動力となり、新しい概念誕生に向けた呻吟を支え続けるのだろう。

 

 しかし、これは決して概念Aを誕生させるための呻吟ではありえない。なぜなら、概念Aはまだ存在していないのだから。

 

 しかし次の瞬間、そこには概念Aが存在している。そして事後的に、「あの呻吟があったからこそ概念Aが生まれたのだ」と回顧されることになる。しかしこれが、「あの呻吟は概念Aを生むために行われていたのだ」となると、それは誤りである。

 

 ではいったい、概念Aは「いつ」誕生し、その時「何が」生じていたのだろうか?我々が知っているのは、概念A誕生以前と、誕生以後の世界だけである。この二つの世界をつなぐ「概念Aの誕生」という現象は、何なのだろうか?

 

 この問題に対しては、次のように答えがありうる。概念Aはある時突然誕生するのではなく、ただ我々がその存在を知らなかっただけなのだ。たとえば、数学の定理は「発明」されるのではなく「発見」される、と言われる。これは、こうした観点を反映しているのだと思う。

 

 つまり、ある公理系から導かれうる定理は、原理的にはすべて公理の組み合わせで表現できるはずである。よって、公理系を定めた時点で、潜在的に可能な定理の集合も規定されることになる。そして、数学者が行っているのは、この潜在的に可能な定理の集合の中から未知の定理を拾い上げることで、自ら定理を作ることではない。

 

 ただしこの場合注意しなくてはならないのは、公理系は自らの真偽をその公理系の範疇内では証明できない、というゲーデル不完全性定理だ。ある公理系を定義するとその定義内での真偽を定めることはできるようになる。しかしそれは、その定理が公理系を離れて真であることは意味しない。

 

 ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のように、公理系が異なれば真とされる定理も異なる。定理は「発見」されるというが、これは多分に人為的な前提を置いたうえでの「発見」であることには留意すべきだ。

 

 では、概念の場合はどうだろうか?概念Aは、「発見」されるのだろうか?直観的に言えば、これは正しく感じられない。概念Aを表す言語上の記号も、それが指す意味も、無限のバリエーションが考えられる。というより、そもそも可算的なものではないのだから、無限という言葉を使うのも間違いだろう。

 

 そうである以上、概念A(「自動車」のような)は「発見」されるというよりは複数の人の手で「発明」されると言ったほうが現実に即している気がする。

 

 しかし興味深いのは、ある概念を「発明」した当事者の心象は、むしろ「発見」のそれに近いということである。たとえば、発明の核となる原理の発見について、『テクノロジーとイノベーション』では次のように語られている。

 

「奇妙なことだが、このような(ジェットエンジンやメーザーなど)画期的発見の経験を語る人々によると、閃きはあたかも潜在意識下ですでにパーツが組み立てられていたかのように、完全な形で訪れるという。

 

 しかも、その解決法が当を得たものであることが、自分にはすでにわかっているという感覚ーその適切さ、優雅さ、驚くほどの単純さを感じ取れるのだーと共に現れる。」

 

 ここで語られている心象は、何か完全な形で隠れて存在していたものを、発見するときのものである。

 

 なぜ、このような「発見」が起こるのだろうか?

 

 つぎのような例え話は、ヒントになるだろうか。百科事典棒の話である。マッチ棒に、百科事典の内容を刻印する方法を考える。まず、百科事典の中身を、一定のルールにしたがって数字に置き換える。「あ」は「01」、「い」は「02」というように。

 

 そしてこの膨大な桁数の数字の頭に「0.」をつけて、0以上1未満の小数にしてしまう。元の数字が「12345678」であれば、できあがる小数は「0.12345678」である。

 

 このうえでマッチ棒の頭を1、お尻を0に見立てて、マッチ棒上の任意の1点が0以上1未満の小数と一対一対応するようにする。たとえば、マッチ棒のちょうど真ん中は「0.5」という小数と対応する。

 

 すると、百科事典から作った小数に対応する点が、マッチ棒上のどこかに1点必ずあるはずである。そこに刻印をすれば、百科事典の中身をマッチ棒上に記録したことになる。

 

 この例え話が示唆するのは、情報がたとえ無限にあっても、理論上はそれを表現する有限の方法がある、ということである。ならば、概念Aを表す言語上の記号とそれが指す意味に無限のバリエーションがあっても、それは有限の方法で表現でき、それが概念の「発明」ではなく「発見」を可能にしている、とは考えられないだろうか?

 

 今度また続きを考えてみます。