basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

「風立ちぬ」を見た -菜穂子の孤独についての感想-

 昨日「風立ちぬ」を見た。家に帰った後も余韻が続いていて、好きなシーンを反芻していたりした。

 
 一番好きなのは、結婚のため菜穂子が離れに向かうシーン。黒川さんと菜穂子が提灯で青白く、幽霊みたいに浮かび上がっていて、この世ならぬ美しさがあった。そして歓びに目を輝かせる菜穂子。身体が映画館のシートに押しつけられて息がつまるような、魂がほとばしり出るような迫力があった。
 
 
 そんな色んなシーンの中で、どうも違和感のあるシーンがあった。
 
 死期を悟った菜穂子が、「山の病院」に帰るシーンだ。
 
 この行動、黒川さんの奥さんは「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね」というような解釈をしていたけれど、僕はそれに些細な違和感を覚えた。些細だったのだが、のどに詰まった小骨みたいに気になる。
 
 そもそも、登場人物の一見突飛な行動を別の登場人物が「解説」する、ということ自体不自然だ。これはもう「あなたなんて大嫌いよ」という女の子みたいなもので、絶対に何か別の意図がある。
 
 とくにこの映画は、色々と常人の共感を絶する行動が出てくる。それらには何の「解説」もなくさらっと素通りしているのに、このクライマックスのところだけ水を差すような「解説」があるのはすごくヘンだ。
 
 作り手の意図ということを別にしても、やっぱりヘンなシーンだと思った。美しいところだけ見てほしい、そう思う気持ちよりも、二郎に看取ってほしい、その気持ちの方が普通は強いのではないか?
 
 しかも菜穂子はお嬢様であるとはいえ、一目で恋に落ちてそれを何年も持続させたり、突然の離れでの簡素この上ない挙式を受け入れたり、要するに形よりも心のつながりを大事にする、プラトニックな女性だ。
 
 それならなおさら、見た目という「形」はどうであれ、二郎と最期まで一緒に居たいと思うのが自然の成り行きではないか?
 
 ではなぜ、彼女は山に帰ったのか?
 
 そんな違和感をずっと抱えていたのだが、ふっとそれが解けた。菜穂子は二郎との心のつながりを大事にしたかった、まさにそれゆえに、山に帰ったのだ。
 
 菜穂子は、死の床に臥すことで、真実が露見するのを避けたかったのだ。
 
 「山の病院」に帰る前の晩、二郎と菜穂子が話すシーンがある。仕事が一段落して、二郎が家に帰ってくる。菜穂子は二郎をねぎらい、二郎は「君のおかげだよ」と応じる。しかし、彼は同時に、仕事でしばらく泊まり込みになりそうだと告げる。二郎はすぐに寝落ちしてしまって、菜穂子は彼を自分の布団に入れる。
 
 翌朝、二郎は仕事に出かける。菜穂子は彼を笑顔で見送るが、すぐ何とも言えない寂しそうな、諦めきったような表情になる。
 
 このとき彼女は、計り知れぬ孤独を感じていたはずだ。それは、二郎が仕事と女という対立項から結局仕事を選んだせいではない。そうではなくて、二郎にはそもそも「仕事と女という対立」自体が存在しない、そのことのせいだ。
 
 仕事と女が対立していて、結局仕事を選んだのならまだ救いがある。少なくとも一時的には、「女」は「仕事」と引き合うだけの重みや存在感を持っていたのだ。
 
 しかし二郎は違う。彼の中で、「仕事」と「女」は何ら対立していない。どっちも本当に好きだし、どっちも全力で愛している。自分の好きなもの同士がなぜ対立しうるのか、二郎には理解すらできないと思う。
 
 仮に(仮にですよ)菜穂子が、「わたしと仕事のどっちが大事なの!?」と問い詰めたとしても、二郎はおそらくぽかんとして、「どっちも大事だよ」と答えるだろう。そのとき二郎は、何のうしろめたさも感じないはずだ。
 
 そしてそのことが、菜穂子を孤独にする。
 
 菜穂子が仕事をする二郎に手を握ってもらい、「私が眠るまでにぎっていて」みたいなことを言うシーンがある。常人だったら「あーもうめんどくさいなー」と思いつつも、握ってやると思う。しかし二郎は、何のわだかまりもなく握ってやる。
 
 それが菜穂子には寂しい。「えー仕事がやりにくいよ」と邪険にされるよりもずっと寂しい。邪険にされたら、「むー、私と仕事どっちが大事なのよ」とむくれることができる。しかし二郎に対しては、むくれる余地がない。
 
 菜穂子の孤独の叫び声は、二郎という大草原(そう、まさに二郎の夢に出てくるような)みたいな魂に包み込まれると、虚空へと消えてしまう。
 
 さて、話は冒頭に戻る。二郎を見送った菜穂子は、既に自らの死期を悟っていた。そして死の床に着くことで、二郎の真実が明らかになることを恐れた。
 
 自分が死の床に着いて、それでも二郎が仕事を放り出して帰ってこなかったら。菜穂子は、自分が二郎の人生においていかなる位置も占めていなかったことを悟らねばならない。
 
 しつこいようだが、これは二郎が菜穂子を愛していなかった、二人の関係が嘘だったということではない。二郎は二郎なりの仕方で、菜穂子を愛している。しかしそれが、大草原が孤独な魂を包み込んで溶かし去ってしまうような愛し方だということに、菜穂子は気づかねばならない。
 
 包み込む対象は、「この私」でなくてもよかったのではないか、と彼女は悟らざるを得ない。菜穂子の愛は個別的だが、二郎の愛は宇宙的なのだ。
 
 この違いに、菜穂子は絶望するだろう。
 
 かといって、二郎が仕事を放り出して帰ってきたら。そして自分を看取ったら。菜穂子は、それまでの二人の関係を疑わざるを得ない。菜穂子が好きだったのは、仕事も女も宇宙的に包み込んでしまう、そんな二郎だったのではないか。二郎が帰ってきてしまったら、菜穂子のそんな夢は否定されるだろう。
 
 たぶん、菜穂子はどちらの結末も望まなかった。だから「山の病院」に行ったのだと思う。
 
 「山の病院」に行けば、菜穂子は自分に言い訳ができる。危篤の電報が送られても、二郎は臨終に間に合わないだろう。菜穂子は、二郎が来たかどうかを知らずに逝ける。不確定ということは、「来た」と「来なかった」というどちらの現実も、存在しないということだ。
 
 菜穂子はそれを望み、叶えた。純粋に夢のために生きたのは、菜穂子の方ではなかったか。そのためには、ああいった形で夭折するのが最上だったとさえ言えるだろう。
 
 二郎の夢は、不完全だった。それは、多くの犠牲を伴っていた。そして、敗戦とともに挫折せざるをえなかった。戦争は、二郎や本庄にとっては祝祭だったのだと思う。この「祭」が終わった後、祭の美しい生贄台作りを夢とした彼らは、どう生きればよいというのだろう?
 
 二郎の夢は夢でありながら、はじめから外に開かれてしまっていた。そしてこの開放性が、二郎の夢の純粋さを損なった。
 
 菜穂子は違う。菜穂子の夢は、彼女自身の中で完結する性質のものだった。ただしそれは、誰にも理解されない孤独を代償としていた。
 
 そのことを象徴するのが、僕が違和感を覚えた「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね」という台詞だったのだ。菜穂子のよき理解者であったはずの黒川さんの奥さんでさえ、菜穂子の孤独をとらえ損なっていたのだ。
 
 ラストシーンで、二郎が飛行機設計の先達であるカプローニと会う。そこは夢の中で、大草原が広がっている。二郎は何度もここを訪れていて、そのたびにカプローニと「飛行機という夢」について語り合う。そしてそこに、菜穂子が姿を現す。「風のような人だった」と、カプローニが言う。二郎は菜穂子に感謝したが、謝ることはなかった。
 
 この大草原に、無数のゼロ戦が飛びカプローニが夢を語るこの世界に姿を現せたこと、「飛行機という夢」で完結していたはずの世界で二郎に会えたこと。
 
 それが、菜穂子の救いだったのだ。
 
 たとえそれが彼女自身の死後のことだったとしても、彼女は一向に気にしなかっただろう。彼女もまた、夢に生き、夢のために死んだのだから。
 
 そして、そうした形で菜穂子を救済してやれたこと、それはまた二郎にとっても救いへの糸口になるだろう。
 
 ワインを飲みながら二郎がカプローニと語り合うのは、飛行機という美しい夢のことと、風のように生きた菜穂子という女性のことだったと信じたい。風は飛行機という夢を飛翔させたが、その風とはある美しい女性の別名だったのだ。