basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

保守的で常識を疑わない研究者と、彼らに対する心境の変化

 大学に入って、研究者というもののイメージがずいぶん変わった。それまで研究者というのは洞窟に棲む修行僧のような存在で、森羅万象に明るく、世俗的な名誉や喜びとは全く無縁の、真理の探究だけを生きがいとする人々だと思っていた。
 

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 しかし、大学にいる研究者は無邪気であるか、サラリーマン的であるか、あるいは両方だと思うことが増えてきた。少なくとも、修行僧ではない。
 
 
 無邪気な研究者というのは、自分の専門領域にだけ偏執的な関心を示す。ただ、「専門バカ」という言葉から連想されるような頭の固くて喜怒哀楽のない朴念仁ではない。
 

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 むしろ逆に、その専門領域を心から愛しているようだ。目がキラキラしている。自分の専門の話になると、好きなお菓子を山盛りにされた子供みたいにはしゃぐ。見ているこっちまで心が温まる。そして、生きていることをエンジョイしている。
 
 一方サラリーマン的研究者というのは、惰性で研究している人たちだ。研究への熱意は、昔ほどは無い。

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 昨日やっていたことを今日も、今日やっていたことを明日も、繰り返す。専門領域にものすごい愛情があるというわけでは無い。毎日の生活の糧を得るために、取り立てて革新性があるわけではない研究を繰り返す。出世のために、いい雑誌に論文をのせようと躍起になる。
 
 これらの研究者たちに共通するのは、自分がよって立つ基盤を疑おうとしないことだ。たとえば社会科学の分野であれば、通常の統計分析手法の限界は割とはっきりしている。もちろんそれが有効な研究対象も多いが、そうではない対象も多い。にもかかわらず、それにかわる手法やものの考え方、パラダイムを積極的に探究しようとはしない。
 
 僕は前、こういう保守的なスタンスをとる研究者(だけでなく他の職種の人も)を軽んじていた。つまんない人たちだなと思っていた。
 
 でも、そういう考え方を一切やめることにした。まず、人を軽蔑するのは疲れる。こういう人たちとは、大学に行くたびに会うのだ。顔を合わせるたびにむしゃくしゃしていたのでは、こちらの気持ちが持たない。それに人を軽蔑していると、その刃が自分にも向かって自己不信になる。これもけっこうきつい。
 
 それに、人を軽蔑したからと言って問題が解決するわけでも、自分がましな人間になれるわけでもない。罪を憎んで人を憎まずというが、問題は人にはない。人にそういう行動をとらせるシステムの側に問題があるのだ。

 無邪気であることやサラリーマン的であることは、人を憎んだり軽蔑したりする理由にはならない。ほとんどの場合、人は愛すべき存在だ。
 
 すごく上から目線な言い方かもしれない。でも僕は結局、無邪気な研究者もサラリーマン的研究者も大好きだし、すごく尊敬している。
 
 ある先生のお決まりのフレーズを聞くと、ついニヤニヤしてしまう。別の先生が専門の話を懇々と説くのを聞くと、あきれるとか退屈とかを通り越して、「この人は本当にこの分野が好きなんだなあ」と温かい気持ちになる。そして敬意を感じる。
 
 疑問を投げかけるべきなのは、彼ら自身ではなくて、彼らの信奉しているシステムのほうなのだ。そのほうが、自分も相手も、両方しあわせではないか。