basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

「現象の本質を理解するために、それを作ってみる」というアプローチについて

 前回(http://basils.hatenablog.com/entry/2013/06/07/004805)引き合いに出した、生気論についての講義。この講義で「おっ」と思ったのは、生気論についての命題を根拠づける、その方法である。そこで、まずは生気論について。
 
 K先生は、「生気論は退却戦法」とおっしゃった。物理や化学では説明しきれない、生物に独特の性質・要素を説明しようとするのが生気論。逆に言えば、物理や化学で説明できる範囲が拡大するにつれて、生気論が解明すべき領域は狭くなっていく。物理や化学の「侵攻」に対して、生気論は「退却」しつつ戦う。なので、退却戦法。
 
 しかし、「物理や化学で説明できないことを説明する」という生気論の成り立ちからして、その成果や命題を他人と共有することはできないのではないか?言い換えるならば、生気論に関するある命題の正しさや根拠は、どこに求めればよいのか。少なくとも講義で挙げられた生気論の諸命題はどちらかというと哲学的なもので、科学的に実証できそうなものではない。
 
 K先生の答えは、「生命が発生するもととなる卵を人間はまだ作れていない。卵がどうやって成長するかについては、線虫のような単純な生物では解明されつつあるが。卵を作れていない以上、生気論についてのある命題の根拠づけをすることは難しい。」
 
 ということは、この「卵」を作れれば、生気論についての命題の根拠づけができるということか。
 
 僕が「おっ」と思ったのは、「自然現象の本質を理解するために実際にそれを作ってみる」というアプローチを、池上先生もK先生も示唆しているということ。池上先生も、生命現象とは何かを理解するために、シミュレーションという方法を重視されている。たとえば、『二十歳の君へ 16のインタビューと立花隆の特別講義』という本を見てみる。
 
 
「P 科学でストーリーテリング以外のことをやっていくとなると、どのような営みが考えられるのでしょうか?
 
池上 自分でシステムを作るってことになると思います。微細構造とか無意識の構造とか含めて現象の全部を、人工的に立ちあげてやったら、ストーリーテリングする必要ないじゃないですか。『自然現象は神様から与えられたものであり、われわれはそれを記述するだけだ』っていう考え方に対して、『自然現象そのものも、その現象を説明する理論もこっちで作ってやろう』という立場をとってるということですね。そのときに何を落として何を採るかを考えることが理論であり、ストーリーテリングだったりするわけですが。(中略)だからえいやっ、てそういう部分には目をつぶることでストーリーができるわけなんです。でもそればっかりだとつまんない気もする。面白みはその『捨てた部分』にある。(p132)」
 
 
 池上先生もK先生も、問いはよく似ている。しかし、スタンスはある意味で真逆だと思う。池上先生は、トラディショナルな自然科学をとことんまで突き詰めていった結果そこに生命現象が生まれてくるというスタンス。「生命と非生命は連続的」と言っているのが、その証拠である。それに対して金森先生は、「生命と非生命の間には飛躍・断絶がある」というスタンス。
 
 しかし、真逆のスタンスであっても、「生命を理解するためにそれを作ってみなくてはいけない」ということを、ともに示唆している。実験や観察といった手法では間に合わないような問いが立てられるようになった、あるいはそうした問いに正面からぶつかれるようになった、という大きな変化なのかもしれない。工学部などの「アート」的な分野では、ものを作るのは当たり前である。しかし、現象の本質(複雑な現象の結果ではなく)を理解するというサイエンスの分野で「理解するために作る」というのは、従来ほとんどなかったことなのかもしれない。