basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

感想:渡辺京二『逝きし世の面影』 かつての日本の文明との距離

 江戸時代の日本がどんな文明を持っていたのか、を仔細にわたって描写した本。ただし、ありがちな「日本文化って素晴らしかったんだよ!」論とは一味違う。
 
 ありがちな本だと「自分たちの先祖たちが持っていた文化としての日本文化」という視点をとってるが、この本はそれをいったん脇において「近代化によって滅びた、徳川時代の文明」という視点をとっている。
 
 
 この二つは、似ているようで微妙に違う。後者の視点だと、まるで外国の話を聞いているような錯覚におちいる。200年前の日本の話なのに。すごく距離を感じる。と同時に、安直な「先祖の文化」論を聞くときよりも、深いなつかしさや憧れを感じた。
 
 一番印象に残った箇所は、著者にとっての「文明」と「文化」の違いを述べた箇所。著者いわく・・・
 
 「文化と文明は異なる。」
 
 著者は、「文化」を伝統芸能や行事など個々の事象、「文明」をそうしたものの集合からなる「歴史的個性としての生活総体の有り様」だと区別している。そして、
 
 「文化は滅びずに変容する。しかし徳川時代の特異な文明は、近代文明によって滅ぼされ た。」
 
「徳川時代の特異な文明」ときいて、ちょっと違和感があった。「文明」という言葉が使われていたせいだと思う。江戸時代にあった、個々の文化の総体としての文明っていったいなんだったのだ?あまりにも遠すぎて想像がつかない。
 
「ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性を持った文明の滅亡であった。茶の湯や凧揚げなどの個々の事象が生き残ろうとも、それらの事物に意味を生じさせる関連は全く変化したのだ。」
 
 「新たな図柄の一部として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚だろう。」
 
 近代化以前の日本に思いをはせるとき、まず必要なのは現代との距離に対する実感なのだと思う。かつての文明は滅びたのだ。
 
 いま「伝統」と呼ばれているものは、かつての文明の中で持っていた意味を失ってしまっている。形や技が現代に残っているとしても、それはもう別物なのだ。そう考えたことは、今までなかった。
 
 茶の湯や凧揚げや歌舞伎や花見が「日本の伝統文化」ではなくて「空気のように当たり前の営み」だった時代に、人は何を考え、行動していたのだろうか。かつての文明に生きていた人たちとの隔たりを意識したからこそ、彼らのことをもっと知りたくなった。