basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

イノベーションとは結局何なのか? -そもそも「新しさ」とはなにか-

 「概念の新しさ」とは、そもそも何なのだろうか?
 
 イノベーションとは、新しい概念を生み出して広めることだと思う。では、ここで言っている「新しさ」とはいったい何なのだろうか?
 
 たとえば、ソニーのウォークマンの事例を考えてみよう。
 
 

 

 
 ウォークマンがイノベーションであることは、多くの人が認めるだろう。ウォークマンの新しさは、それが歩きながら・運動しながらの音楽鑑賞を可能にしたという点にある。これを上記のイノベーション観に即してとらえると、ウォークマンは「運動しながら音楽鑑賞をするための機械」という新しい概念を生み出しているといえる。では、この概念の新しさはどこにあるのか?それは、運動という概念と音楽鑑賞という概念を結合している点にあるだろう。この結合が今までになかったために、この概念は新しいものと見なされるのだ。概念の新しさは、既存の概念の今までになかった結合によって生じると言えそうである。
 
 しかし、このイノベーション観には少なくとも2つの観点からの反論が考えられる。
 
 第一は、これでは我々の日常言語運用にみられる概念の新しい結合と、イノベーションを区別できないという反論である。我々が普段話したり書いたりする言葉が、過去に話されたり書かれたりした言葉と完全に同一であるということはあり得ない。つまり、我々は日常的に、概念を今までになかったやり方で結合しているのである。しかしそれでは、こうした日常的な新結合と、イノベーションは結局何が違うのか?新しさの度合いが違う、結局は新しさの程度の問題だといわれれば、確かにそうかもしれない。しかし、本当に両者の間に質的な違いはないのだろうか?
 
 第二は、イノベーションは足し算的であるよりは引き算的だという見方と矛盾するという反論である。様々な分野の人が、イノベーション(あるいはそれの同等物)は引き算的であると考えているらしい。
 
 たとえばスティーブ・ジョブズ。アップル社の洗練された製品は、ムダなものを極限まで削り落とすという彼の信条から生まれた。アップル社の製品は、既存の概念を結合することによって生み出されたものではない。それどころか、こうした足し算的なやり方は、日本のメーカー的な過剰設計・過剰機能の元凶となる。あるいは糸井重里。彼の「生きろ。」というキャッチコピーは、単純この上もないものである。極限まで無駄がない。しかしここには、企業活動におけるイノベーションと同じような何かが創造されているのではないか。そしてi.school。i.schoolとは、東大のイノベーション教育プログラムである。ここで教えられることの1つは、切れ味の鋭い概念を創り出すことである。色々なものがくっついた、ゴテゴテした概念は嫌われる。「切れ味の鋭さ」とは非常に説明しにくい特性だが、これは「概念の新しさ」と深い関係を持つものだろう。
 
 これらの例にみられるような引き算的イノベーション観を、「既存の概念の結合」というイノベーション観は包摂できない。そこで、両者を包摂するさらに一般的な「新しさ」の見方が必要となりそうだ。