basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

新しさの無限階段的性質について

 普通の方法をとる限り、あるものの新しさは別のものの新しさによってしか説明されない。このことは、新しさとは何かを考える上で極めて重要だと思う。新しさとは何かを「普通の方法」では理解できない、ということが理解できるためである。
 
 「概念の新しさ」ということには無限の階層性がある。無限階段的性質。あるいは、自己言及的性質。ある概念の新しさを説明しようとすると別の概念の新しさを説明しなくてはならず…という説明責任の連鎖が無限につづく。たとえば昨日の記事(http://basils.hatenablog.com/entry/2013/05/31/015128)の例でいえば、「HWPMが新しいのは、内部統合と外部統合という概念の結合が新しいためである。この結合が新しいのは、内部統合と外部統合という概念それぞれが新しいためである。・・・」というように。個々の概念はすでにあるのだ。それを組み合わせることで新しい概念が生まれるとしても、それはどのような意味で新しいのだろうか?それでは、いったいどこに「概念の新しさ」があるのだろうか?連鎖が無限につづくならば、1つ1つの連鎖においては「新しさ」は全く発生していないはずではないか?なぜなら有限数を無限で割るとゼロになってしまうから。
 
 注意したいのは、「新しさ」を「今までになかったこと・性質」と言い換えてみても問題は全く解決していないということである。今考えたいのは、「新しさとは何であるか・あるものが新しいとは一体何を意味しているのか」である。言葉だけ入れ替えてみても、結局「『今までにない性質』とは何であるか・あるものが『今までになかった』とは一体何を意味しているのか」という問題が残る。字面が変わっただけで、問題は依然として未解決のままである。
 
 この問いを考えるうえでヒントになりそうなものの1つが、数学の公理系である。ある意味で、数学の全ての定理は、それを導出するもととなった公理系の中に内包されている。定理は、公理系からの演繹的推論の産物であるためだ。言い換えると、すべての定理は公理の果てしない組み合わせの連鎖へと還元できる。では数学の定理に全く新しさが無いかと言えば、それは嘘になるだろう。少なくとも我々の直観的なイメージに反している。ピタゴラス三平方の定理が画期的でなくて、何が画期的なのだろう?それともこれは、単なる量的な問題なのだろうか?つまり、公理系からの距離が遠い定理であればあるほど、その定理はより新しいといえる、というような。しかし、これも何かが間違っている。公理系からの距離と、定理の新しさ(あるいは画期性と言い換えてもいいかもしれない)の度合の間に、自明な相関関係は存在しないだろう。
 
 もう一つヒントになりそうなものが、レゴブロックである。個々のブロックは既にある。ではそれを組み合わせてつくる作品に全く新しさがないかといえば、そんなことは無い。新しさは、ブロックの組み合わせ方にあるのだろうか?しかし、そうとも言えない。あるブロックAと別のブロックBを組み合わせる方法は、ブロックの形状によって予め規定されている。その意味で、ブロックの個々の組み合わせ方に新しさがあるとは言えない。ではいったい、あるレゴ作品の新しさはどこにあるのだろうか?それとも新しさは単なる確率的問題に過ぎず、全てのブロックの全ての組み合わせ方を計算できるとき、どこにも新しさは存在しないのだろうか?その場合すべてのレゴ作品は、個々のブロックの形状のあり方に予め内包されているといえるから。数学の全ての定理が、そのもととなった公理系の中に内包されているというのと同じ意味で。
 
 一体「何かが新しい」という時、そこにどんな現象が生じているのか。それを理解するには、ある物の新しさを別のものの新しさへと還元するという「普通の方法」では不十分なようだ。