basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

イノベーションをシミュレートする -固有性の論理と普遍性の論理-

 藤本隆宏・安本雅典の『成功する製品開発』冒頭では、成功の論理は2種類あると指摘されている。

 

 第1が「一本のヒットの論理」。野球の一本一本のヒットには、それぞれ異なる論理がある。それと同様、一つ一つのヒット製品の裏にはそれぞれ固有の論理がある。それは歴史のいたずら・トップの個性・偶然の発見・思いつき・時流とのマッチなどである。

 

 第2が「高打率の論理」。野球には、打率の高い打者がいる。その打者の打率の高さの理由は、ある程度論理的に説明できる。それと同様、ヒット製品をコンスタントに生み出し続けられる企業には、それを可能にする論理がある。それは組織構造・マネジメントシステム・組織ルーチン・企業文化などである。

 

 これら2種類の論理は、イノベーションを説明しようとする際のスタンスにそのまま敷衍できる。

 

 「一本のヒットの論理」に対応するものが、いわば「固有性の論理」である。このスタンスでイノベーションを説明する際には、時間的・空間的具体性、行動主体の固有性、一回性、不可逆性に注目することになる。

 

 一方「高打率の論理」に対応するものが、いわば「普遍性の論理」である。このスタンスでイノベーションを説明する際は、時間や空間の具体性、行動主体の固有性などは捨象されて、一般的な法則が抽出されることになる。

 

 『成功する製品開発』では、結局実証的社会科学の学問的考察の対象になるのは後者だとされている。どんなに面白いストーリーでも、それが「固有性の論理」に裏付けられている限りは社会科学的に分析できないと主張されているのである。 

 

 他方で、「固有性の論理」の土台を強固にしようとする試みはある。沼上幹『行為の経営学』や石井淳蔵『ビジネス・インサイト』などに、そうした試みは見られる。

 

 しかしこうした試みに用いられる方法論でも、現実のディテールは抜け落ちてしまう。どれほど大量の資料を集めようと、どれほど暗黙的認識を働かせようと、その時・その場の当事者に「なる」ことはできない。それでは現実のディテールが抜けてしまうし、時間の一回性を再現することはできない。「一回性を再現する」という表現からして、語義矛盾である。一回性が「再現」され、ディテールの抜け落ちた「理解」が得られる時、「ああなるほど、要はこういうことか」という納得が生まれるとき、「固有性の論理」は直ちに「普遍性の論理」に転化してしまう。いかに巷に、「固有性の論理」に見せかけた「普遍性の論理」が多いことか。言語による理解に頼っている限り、固有性の論理は不可能ではないかとさえ思う。

 

 一回性が保障されない限りは、イノベーションを真に理解することはできないだろう。

 

 では、理解するためには行為しなければならないのか。あるいは少なくとも、暗黙的認識を通じて行為の同等物を得なければならないのか。僕は、そうした諦めに対しても抵抗を感じる。それは、行為・暗黙的認識という便利な遁辞を使って学問的な理解を放棄することと同じではないか。確かに、実務家に指針を与えるための経営学というスタンスをとるならば、反省による理解の深化・暗黙的認識による身体的レベルでの知見獲得というのは大いに有意義な方法論だろう。しかし、それでは学問にならない。経営学を文字通り「経営についての学問」と認識するならば、学問が行為や暗黙的認識による理解に依存してしまうことは避けなければならないと思う。

 

 それでは、イノベーションを真に理解する手立てとして何が有用か。僕は、シミュレーションが有用ではないかと思う。ディテールや一回性を捨象せずにイノベーションを理解したければ、それと同等の現象をつくり出すしかない。少数の前提条件の下でプログラムを走らせ、そこに思いもよらぬ何かが生成してくるのを見守るしかないのではないだろうか。それが、「固有性の論理」の見せかけの不可能性を超える有望な方法だろう。