basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

イノベーションに固有の自己運動の論理は何だろうか?

 イノベーションが新しい概念の生成と普及だとするなら、概念の生成と普及のプロセス、および概念が製品やサービスとして実体化するプロセスを分析する必要があるだろう。
 
 これらのプロセスを考察するうえでカギになるのは、概念の価値とは何か、ということだと思う。製品の価値がそこに転写された情報から生じるのであれば、この情報・概念の価値が何であり、どこから生じるのかを考える必要があるだろう。
 
 資本やテクノロジーは、それ自身の論理にしたがって自己運動する。それと同様、イノベーションや概念も自らの論理にしたがって運動するのではないか。ではその論理とは何か?
 
 イノベーションの論理の1つは、既存のものの結合だと思う。これはテクノロジーの場合と同様だ。しかし、それだけではない。テクノロジーを要しないイノベーションもある、ということではない。ここでいうテクノロジーとは、「目的を達成する手段」であって、日常的な意味のテクノロジーよりも広い範囲のものを指す。テクノロジーをこのようにとらえるならば、すべてのイノベーションには必ずテクノロジーが必要だということになる。
 
 そうではなくて、イノベーションは社会的営みだというのが、テクノロジーとイノベーションを分ける重要な違いだ。ブライアン・アーサーの『テクノロジーとイノベーション』では、テクノロジーそれ自体は客観的な実体だと前提されている。
 
 しかしイノベーションは社会に関わる営みだ。そのため、解釈や自己反省、人間同士の相互作用が生じる。こうした特性をイノベーションが持つ以上、その論理はテクノロジーと同様の論理を含みつつも、それとは異なったものにならざるを得ない。
 
 では、人間同士の相互作用としてのイノベーションは、どんな論理にしたがって運動するのだろうか。
 
 まず混沌があり、その整理、完成、そしてコピーの連鎖による劣化。新しい概念が生まれて普及するとき、おおよそこのような過程を辿る。完成されたあとの概念をコピーしているだけでは、劣化が生じる。完成はその時点での矛盾、居心地の悪さを解消するために生じるプロセスだ。いったん完成された後では当初の問題意識から遊離し、制度となって独り歩きを始める。
 
 概念が普及することと完成することは表裏一体で、それがイノベーションの目指すところでもある。しかしこの目標を達成することが、概念の劣化の第一歩である。完成が劣化を招くのだ。
 
 概念は普及にともない劣化するが、同時に変容もする。当初の問題意識や意図からの遊離によって、当初想像されなかった解釈や意味が生じる。
 
 続きはまた後日考えようと思う。