basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

ケーススタディー的方法の限界について

 かつて僕のゼミの先生(以下大将)はこう言ったものだ。「インタビューで聞ける話は事後的に解釈された話だ。成功した人はどうしても自慢話をしたがるから、話にバイアスがかかる。たとえば、『他の人には反対されたが、あの製品が当たることは分かっていた。私には○○と○○という変化が見えており、だからあの製品の成功には確信を持っていたね。』という話をされたとする。しかし、それは事後的な解釈である可能性が高い。当時の話し手には成功の確信はなく、○○と○○も後から成功の理由を探る過程で明らかになってきた要因だろう。だから、本当に実務家がどんな意思決定をしているかを知りたければ、意思決定とそれに至る過程をその都度日記に書いてもらうしかない。」

 

 それから大将は、戦場で日記を書いていた兵士の話を始めた。たとえば、怪我をした仲間の朝鮮人をうっちゃって退却するか、一緒に連れていくか。彼は結局一緒に連れていくことを選んだ。後から振り返ればヒューマンな話かもしれないが、当時の彼にとっては命がけの選択だった。そうした行為時点での葛藤、苦しみ、ぎりぎりの判断が、日記には残されていた。兵士はその日記を自費出版したが、ほとんど売れなかった。しかし数十年後、にわかにその日記が注目され出した。誰に?自衛隊の士官学校の教官に、である。彼らは、その日記が士官教育の教材としてきわめて有用だと気づいた。ふつうの戦記は、かなり時間が経ってからの回想によって書かれる。だがそれでは、記憶にバイアスや誤りが生じる。そこで、行為時点で記録された件の日記が、希少な史料価値を持つのである。

 

 しかし、である。大将の言うように行為時点での記録を入手できたとしても、まだ問題が残る。その記録をもとにストーリーを再構成するのが、現在にいる「私」だという問題である。永井均の言葉を借りると、そこでは「系譜学的認識の解釈学化」が生じるのではないか。

 

 もう1つ、この方法では現象の偶有性・一回性を殺してしまうのではないか。「ほかでもあり得たはず」という性質と、「現象がその場・その時に固有のもの」という性質である。「先が全く予測できない中でぎりぎりの決断をした」という現実が、この方法では抜け落ちてしまうのではないだろうか。

 

 ケーススタディー的方法では、以上のような限界を超えることはできないだろう。それは、どんな資料を集めたとしても、である。では他に、どのような方法があるか。それを考えるのは明日以降になる。