basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

情報や概念の価値は、どこから生まれているのか?

 複製が無限に可能・同時利用が可能な情報や概念の、「価値」の源泉は何なのか?
 
 物理的実体をもつ製品であれば、希少性や労働による価値の付加、それからそれがもたらす効用が価値の源泉になるだろう。しかし情報や概念の場合は、前の2つをを源泉にすることはできない。
 
 情報や概念は、原理的にはコストゼロで無限に複製可能なので、希少性はない。また、それらの生成時には一定の労働が必要だが、それも無限の複製可能性のために価値の根拠とはならない。
 
 
 知的財産権は、この情報や概念が本来持っている性質に軛を課して、あたかも物理的実体をもつ製品と同様に扱うための方便だと思う。
 
 知的財産権が機能していれば、情報や概念の価値は希少性や労働による価値付加から生じていると考えてよい。では、知的財産権が機能しなくなったときはどうか?
 
 ケインズの美人投票の喩えから、情報や概念が価値を生む仕組みについてヒントを得られる。ある概念が価値を持つか否かは、他の人がそれに価値を見出すか否かによって決まる。
 
 こう考えると、相互参照の連鎖は無限後退し、結局価値の根拠を「どこか」に見出すことはできなくなる。つまり、「どこか」に価値の源泉があって、それが概念や情報に価値を与える、という構図そのものを放棄しなければならないのではないか。
 
 重要なのは、「価値がある」というのもまずは一つの概念だということだ。そして「価値は概念だ」という言明それ自体も1つの概念だ。先ほど述べた相互参照の連鎖を水平的無限後退と呼ぶならば、こちらのは垂直的無限後退とよべるだろう。
 
 そしてさらにさらに、無限後退はつづく。「水平的無限後退」や「垂直的無限後退」という構造そのもの、それもまた概念だ。こうして無限後退は、何かを言明した瞬間、何かの概念を措定した瞬間にあらゆる階層にわたって生じる。
 
 「概念に価値がある」ということと「概念に意味がある」ということは等価だろうか?他の人に理解してもらえる、コミュニケーションを引き起こす、ということを概念の価値だとするならば、概念に意味があることと概念に価値があることは等価だろう。
 
 しかしそれは、基本的なレベルでの話に過ぎない。概念に意味があること、それが有用だと認識されること、そしてそれが経済的価値を生み出すこと、これらは重なり合いつつも別のことだ。きちんと区別しなくてはならない。
 
 詩的言語が創出する概念の「価値」と、日常言語における概念や情報の「価値」、そして経済的価値に変換しうる情報の「価値」は、何が同じで何が違うのだろうか?少なくとも、これらを全く関連のない現象と考えることはできないと思う。
 
 概念や情報の価値が無根拠であることが、前もっての価値の創出を可能にしている。これが、概念や情報の価値の問題を考えるうえでの大きな逆説だと思う。
 
 シュンペーターの信用創造理論が明らかにしたのは、このことだと思う。それまでの古典経済学では、貨幣は単なる価値の媒体に過ぎず、なくても構わない物、つまり経済現象を理解するうえでは本質的でないものと思われていた。
 
 しかしシュンペーターは、この論理を180度逆転させた。それ自身に価値の源泉がないこと、まさにそのことが、かえって事業の実現以前の価値創出に不可欠であり、それが企業家への金融を可能にしている、ということだ。
 
 もし貨幣に価値の根拠が必要なら、それをもたない企業家はそもそも事業に必要な融資を受けられない。価値の源泉をもたないままに融資を受けた企業家が、事業によってその融資の何倍もの利益を生み出して、事後的に融資された貨幣の根拠を創り出す。
 
 この時間軸の逆転こそが信用創造の本質であり、資本主義の本質だというのが、シュンペーターの信用創造理論の骨子だと思う。
 
 情報は複製可能性や同時多重利用可能性をもつため、本源的に拡散する傾向を持つ。つまり、エントロピーの増大と同様、情報が拡散することが自然な傾向だ。
 
 しかしながら、情報の価値はそれを知る人が少なければ少ないほど高まる。ここに、情報がもつ大きな矛盾があるのではないか。ではこれが、経済活動にどんな帰結として現れて来るのだろうか?