basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

「新しい概念は、それを生み出そうとして生まれたものではない」というパラドックスについて

 革新的イノベーションと言われるイノベーションも、開発者たちにとってみれば実は漸進的なイノベーションの集大成なのではないか?
 
 革新的イノベーション(丹羽, 2006)と呼ばれるナイロン・パソコン・カーナビなどは本当のところどのようにして生まれたのか?本当に先例がなく、まったく新しいコンセプトから作られたのか?それとも、従来の改良品を総括する形で、ドミナントデザインを創り出したのが後世からは「全く新しい」ようにみえただけなのか?
 
 たとえば自動車は、革新的イノベーションと思われている物の一例である。しかし実際には、「エンジン付き馬車」からはじまり種々の改良がくわえられて徐々に進化していった。19世紀末の自動車メーカーは、その多くが馬車の部品メーカーや馬車メーカーから転身したものだったのである。
 
 そして1908年のT型フォードの登場によって、ドミナントデザインが確立した。と同時に、「自動車とはかくあるべきものだ」という社会的合意が生まれた。つまり、自動車の生産者側も消費者側も、「自動車とはどんな形や機能を持つ製品で、どのように使うべきか」ということを広く了解したのである。自動車とは内燃機関で駆動する交通手段で、エンジンはボディー前部のボンネットに格納し、車体は箱型、四輪のタイヤを持ち、ハンドル・アクセル・ブレーキで操作する、といったようなことである。
 
 このように、自動車は「自動車を作ろう」というグランドデザインのもとで作られたのではない。成り行き任せの変化の連続の結果、現在の「自動車」というコンセプトができあがったのだ。こうした現象をとらえるのに重要なのが、進化論的視点だ。ここで言う進化論的視点とは、事後的に見れば目的合理的に見えるものが、事前には合理性をもってなかったことを了解する視点のことだ。
 
 自動車のドミナントデザインが完成した後では、自動車はそれを作ろうという明確な意図のもとに作られたかのように見える。つまり、事後的に見れば目的合理的である。しかし実際には、自動車の成立過程は多分に行き当たりばったり、短期志向で些細な改良の繰り返しである。すなわち、事前には「自動車を作る」という合理性を持っていなかったのである。
 
 さて、この「事前には合理性がなくとも、事後的には目的合理的に見えるものが生まれる」という進化論的視点は、新しい概念形成過程を分析するうえでも重要になってくる。新しい概念は、それを生み出そうとして生まれたものではない、というパラドックスがあるためだ。新しい概念は、それが生れ落ちる一瞬前までは、定義上存在していない。しかし生れ落ちた瞬間には、そこに既にある。この二つの瞬間の間には、深い断絶がある。いったい新しい概念は「いつ」生まれたのだろうか?
 
 ためしに、新概念Aの誕生プロセスを追ってみよう。現象を見て、「こんな概念があれば、現象を切れるかなあ」と呻吟しているうちは、概念Aはまだこの世にない。研究者は、色々と些細な工夫をしてみる。注意したいのは、この工夫は概念Aを生み出そうという事前合理性があってのものではないということだ。概念Aはまだ存在していないのだから、概念Aを生み出すことを目的にはできない。つまり、事前合理性は存在しない。
 
 しかし一瞬のち、概念Aは既に存在している。この概念Aによって、現象をすっきり理解することができた。さてそうすると、かつての呻吟は、概念Aを生み出すためのものだったのだ、と認識されることになる。もっと言えば、概念Aを生み出すことが、その呻吟の目的であったかのように認識される。つまり、事後的には目的合理的であるかのように見える。しかし、現実にはそんなことはあり得ない。概念Aは存在していなかったのだから。概念A誕生以前と誕生以後は明らかに断絶しているが、同時に連続してもいる。
 
 この概念A誕生の瞬間、一体何が生じているのだろうか?というより、「概念A誕生の瞬間」などというものは、そもそも論理的に存在しうるのだろうか?我々に認識できるのは、概念A誕生以前の世界と、誕生以後の世界の両者だけだ。「誕生の瞬間」は、「以前」と「以後」の残余項以上のものでありうるだろうか?