basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

特権性を意識しないことが特権性であるという不可思議について

 今日知り合いの女性と話していて、とても面白いことに気づいた。それは、自らの特権性を意識していないことこそが、その人の特権性の如実な象徴だ、ということである。
 
 彼女の実家では、夜となく昼となくクラシック音楽がかかっていた。彼女はそれらの曲の名前や作曲者はよく知らないが、どんな曲を聞いても聞き覚えがある。テレビはほとんど見なかった。そのかわり、本をよく読んだ。フランスの詩人ヴェルレーヌで、文学に開眼した。愛読する作家はプルースト。長じてフランス語を学び、言語学を専攻した。今は東大・早稲田・慶応・一橋で教鞭をとっている。明るく社交的、誰に対しても思いやりがある。よく笑う。
 
 文化資本という観点からすると、間違いなく彼女は「特権階級」にいる。彼女ほどのハイソサエティな育ちは、とても珍しいだろう。そして文化資本は文化にとどまらず、社会的地位や名声をもたらす。しかし面白いことに、彼女は自分の特権性を全く自覚していない。「自分には特権意識は無い」ときっぱり否定した。
 
 それにもかかわらず、彼女は「非特権階級」の人たちとうまくつきあえて、あまつさえ彼らから尊敬さえ受けている。これが僕には本当に不思議だった。普通、彼女のような「特権」を持って、かつそれが当たり前のものだと信じていれば、妬まれる。周りの人間は彼女の足を引っ張ろうとして、彼女のあら捜しをしたがる。加えて、彼女の文化的特権が生得的で、努力によって身に付いたものではないことを非難しようとする。「彼女は自力であんな特権を得たわけじゃないのに!」
 
 そういうものではないか?
 
 しかし、真実は異なるらしいということに今日気づいた。彼女は自分の特権性を全く自覚していない、まさにそれゆえに、「非特権階級」から尊敬されているのだ。そしてそのことこそが、クラシック音楽やプルースト以上に、彼女の特権性の真の象徴なのだ。
 
 つまりこういうことだ。特権が生得的で、それを彼女自身が自覚していないために、その特権は天が与えた先天的特性であるかのように周りには見える。性格のようなものだ。いや、性格ですら、文化資本的特権の帰結だ。文化資本が、彼女の特権的性格を薫陶したのだ。そして特権が先天的であるように見えるため、人は彼女と競うことをやめる。競争は、同じ土俵の上でするものである。しかし特権が先天的であるならば、彼女はそもそも余人とは成り立ちからして違う人間なのだ。競争の生じる余地はない。よって、嫉妬も生じえない。代わりに、尊敬が生じる。ここで初めて、彼女の特権は完成する。彼女は、自らの特権性を忘れることで、「非特権階級」からの無条件の尊敬というこの上ない特権を得るのだ。
 
 しかし重要なのは、彼女の特権は真に先天的ではないということだ。彼女の特権には、俗世的起源がある。おそらくそれは、彼女の数代前の祖先が大企業の重役につき、金銭面である程度余裕ができたといったようなことだろう。そのときの成金的な文化資本の導入が、数代経つうちに当たり前の習わしになった。当たり前の習わし、という点では、特権は生得的である。しかしそれは、何の俗世的起源も持たずに突然変異的に与えられた、先天的な特権ではない。生得的と先天的は別のことだ。そして、特権の俗世的起源が忘れられるとき、つまり生得的特権が先天的特権だと思われるようになったとき、彼女の特権は完成する。これが可能になるのは、彼女が自らの特権性を忘れることによってである。
 
 思うに、前近代的な身分制が長らく続いた要因の一つは、この特権性というものの不思議な性質にあるのではないか。現代人から見ると、士農工商のような身分制はとてつもなく不自然に見える。そして、このような不自然な制度が長続きしたからには、支配階級はよほど強く下々をおさえつけていたのだろうと想像する。支配階級が何の努力もせずに享受している特権を、下々は憎み、彼らを絶えず打倒しようとしたはずだ。それを、支配階級は弾圧しなくてはならない。それが人性の自然ではないか?
 
 しかし、おそらくそれは間違っている。支配階級の生得的特権は、本当は俗世的起源を持つ。しかしそれは、先天的特権だと信じ込まれていたのだ。そしてまさしくそのためにこそ、下々は支配階級を無条件に尊敬するのだ。弾圧は不要である。下々が、勝手に敬服するのだ。これこそが、人性の自然である。
 
 前近代的な身分制は、先進国においてはもはや見られない。しかし、特権性は形に影が添うように残った。たとえば、あの麗しい彼女の影の中に。