basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

うつろな劣化コピー達へのレクイエム

  何がグローバルスタンダードだ。グローバルスタンダードなんか糞くらえだ。そんなもの、普遍性の仮面をかぶって人を見下したがる輩が作ったローカルでたまゆらのスタンダードじゃないか。そんな既製服に、人を委縮させるようなイデオロギーに、未来なんてあるわけがない。そんな死んだ、硬直した、人の親しい囁きや伸びやかさを掻き消すような叫び声なんて、全部なくなればいい。僕はそういうのが大嫌いだ。そんなの結局、群れで言葉をしゃべることしかできない、自分で何一つ生み出すことのできない、何重もの劣化コピーのなれの果てじゃないか。たくさんの人は味方につけられる。劣化コピーでも大勢集まれば暴力だ。でもそんなものに何の意味がある?最も下等な政治的暴力じゃないか。そこには何一つ新しいものも、人を芯から震わせることも、忘我も、情熱も、陶酔も、絆も、晴れやかな笑顔も、無垢も、純粋さも、初恋のみずみずしさも、涙も、人間らしさも、文化祭最終日の狂熱も、ありゃしない。そんなものを追い求めて、死ぬときに後悔しないか?死ぬときに空しくなりゃしないか?自分はこんな煙のようなイデオロギーにすがって生きていたんだ、死にたくないなあ、なんてこと考えたって、仕方ないじゃないか。その時にはもう手遅れなんだよ。馬鹿。そんなことにすら気づかないほど、あんたは鈍感なのか?異文化を理解することが大事だとか言うくせして、その実何一つ分かってないのはあんたがたの方じゃないのか?そんなことも考えたことないのか?僕は全てを許したい。すべてを受け入れて、なははと笑っていたい。でもどうしても許せないものがある。むしゃくしゃするものがある。それがこれだ。人をローラーに巻き込んで押しつぶすスローガンさ。誰にでも開かれていると言いながら、その実誰一人受け入れようとしないあの古くからある偽善的暴力だ。そんな仮面、そんな虚構、そんな鉄みたいに冷え冷えしたものにしたがって生きるなんてまっぴらごめんだよ。レールを外れることが大事だぁ?その主張自体がどこまでも定型的、画一的、スローガン的、はいみなさんご一緒に的狡猾的だってことに、どうして気づかない?みんな一斉にレールを外れたら、そのときそこに新しいレールができるんじゃないのか?あんたは馬鹿なのか?僕は馬鹿が嫌いだ。自分が馬鹿だって考えたこともないような馬鹿がきらいだ。僕は馬鹿だろう。でも僕はそのことを知っている。そこからしか始まらないんじゃないのか?全ては。昔の偉い人たちが懇々と繰り返し説いてきたことなのに、どうして未だにこんな愚劣なものがまかり通っているんだ?もう少しましな文章を、ましな言葉を吐いたらどうだ?せめて一人の女の子を芯からほっとさせるような、そんな言葉を。どれだけの人間が、そういう暴力で苦しんできたと思う?どれだけの人間が、それで死に追いやられたと思う?言葉は、イデオロギーは人を殺すんだよ。分からないのか?たぶんあんたがたにとっては、そんな負け組、はみ出し者、零落した連中のことなんてどうでもいいんだろうな。口では多様性を尊重するとか言っておきながら、本当の多様性には目をつぶる。というより、目の前にあっても目に入らないんだろうなあ。あなたには。あんたの目は何も見ちゃいないんだろうから。何一つ自分では認識したことが無いんだろうから。僕はそんな大人にだけはなりたくないよ。絶対にごめんだ。それじゃあ何のために、彼女が僕を愛してくれたのかが分からない。彼女に顔向けできない。彼女にまた笑顔で会いに行くことができないじゃないか。そんなことになったら、舌噛んで死んだ方がましだね。百万人が大声でスローガンを唱和しても、僕は耳をふさいで般若心経をとなえてやるさ。それか美しい歌でも。書いててもキリがないな。書いたところで、どうせ僕が本当にどやしつけてやりたい連中には届かないだろうな。だったら今は黙って、黙々と勉強するしかないか。それが何よりの供養だ。誰への?僕の知らない、これまでに死んだ犠牲者たち、そしてこれからも死につづけるであろう犠牲者たち、そして人間としては既に死んでいるうつろな亡霊たちへの。僕は彼らにも笑ってほしいんだと思うよ、本当は。できればね。