basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

シミュレーションの無限階段について

 池上高志・植田工『生命のサンドウィッチ理論』を読んでいる。まだ読了してないので、本の感想を書くのは別の機会にしようと思う。しかし、その中の「シミュレーション」についての記述から連想して色々なことを考えた。
 
 この本は、池上が自らの生命観を平易な言葉で語った「科学絵本」である。しかし内容は決して平易ではない。その中心にあるのは、「生命はハードウェアとソフトウェアという2枚のパンと、それらをダイナミックに切り結ぶ具からなるサンドウィッチのようなものである」というイメージである。
 
 たとえば人間の脳で言えば、神経細胞など物質としての脳がハードウェア、その上にのっている意識や思考、感情などがソフトウェアである。そしてこれらは完全に別々のものではなく、かといってべったりくっついているわけでもない。「別々」というのはコンピュータのハードウェアとソフトウェアのような場合だ。コンピュータの場合、ハードウェアとソフトウェアの対応は恣意的である。つまり、あるソフトウェアは理念的にはどんなハードの上でも動くし、逆もまた然り。一方「べったりくっついている」というのは、DNA分子のような場合だ。DNA分子では、物理的構造それ自体が意味を担っている。つまり、ソフトウェアはハードウェアから独立していないのである。そしてハードとソフトが完全に別々ではなく、かといって完全に一体でもない中間的な状態にあるのが、生命である。
 
 というのが、この本の中心にあるイメージだ。しかし、シミュレーションという概念を持ち込むと「ハード」と「ソフト」という二項対立的切り分けが正しいのか、怪しくなってくる。
 
 たとえばライフゲームライフゲームは、自らをシミュレートできる。それは、ライフゲームが万能計算可能性を持っているためである。したがってライフゲームは、それ自身の上でライフゲームと同じ挙動を示すパターンを構築できるのである。すなわちライフゲームのシミュレーションである。
 
 あるいは脳。「脳もまたライフゲーム同様、脳自身をシミュレートする」と池上は言う。たとえば夢は、昼間の経験を何倍速かでシミュレーションしなおすものなのだ。記憶、想起、イメージトレーニング、などなど、脳のあらゆる活動をシミュレーションと見なすことも可能だろう。
 
 そうするとここで、はたと疑問が生じる。ライフゲームや脳のシミュレーション過程は、無限につづくはずだ。理論上は。((ライフゲームをシミュレーションしているライフゲーム)をシミュレーションしているライフゲーム)をシミュレーションしている・・・ という入れ子構造が無限に続きうるということだ。
 
 このとき、何がハードで何がソフトだろうか?
 
 というより、ハード対ソフトという区分はもはや無力ではないか?
 
 いわゆる生命らしい生命(人間、動物などなど)について考えるときは、ハード対ソフトという区別はとてもよくフィットするように思える。ハードが物質的な実体で、ソフトが精神的な実体、どイメージすると、ハードとソフトという区別は非常に明快かつ当を得ているように思える。
 
 しかし、シミュレーション階層が無限につづくとなると、この区別は無力だ。シミュレーションの連鎖と各階層間の切り結びが生命の本質だとすれば、この無限階段の始まりと終わりはどこにあるのだろうか?
 
 それを考察するには、シミュレーションという概念(と同時に研究のための方法論でもある)についての理解を深めなければいけないだろう。それは次回で。