basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

イノベーションとは結局何なのか? -企業には顔があるが、貨幣には顔がないという違いの帰結-

 世界には数多の既存の要素が飛び交っていて、それらは自らの力学にしたがって絶えず合従連衡を繰り返している。

 
 そうした運動の産物のうち、私たちにとって未知だったものを、私たちが「新しいもの」と呼んでいる、と考えられるだろう。
 
 この「要素」には、論理的にはあらゆるモノを含むことができる。原子も言葉も貨幣も、すべて「要素」である。
 
 こうした様々な要素の原理の一つ目は、連続的性質と分節的性質である。前者の特性を持つ要素の代表格は実数、貨幣である。一方後者の代表格は記号、人格、経営組織である。今日はこのうちの、連続的性質について検討してみる。
 
 その前に、なぜこの二つの性質に着目するのか?それは、現代の経済のあり方をを考えるうえで、この二つの性質の区別がきわめて重要だと感じられるためである。
 
 現代の経済における二つの重要な要素は、企業と貨幣である。このうち前者は、つねに差異をつくり出すことによって利潤を得ている。
 
 差別化戦略とは文字通り競合との差異をつくり出すことだし、コスト・リーダーシップ戦略にしても結局はコスト面で競合との差異をつくり出す戦略だ。また、戦略の背後にある組織能力にしても、それが有効なのは他社との差異がある限りにおいてである。
 
 堂々たる戦略ではないにせよ、政策による既得権の保護や、ロビー活動、サクラによるやらせなども、それによって他社と差異をつくり出すことを狙っている。
 
 つまり企業が生き延びられるのは、何らかの差異をつくり出すことによってなのだ。
 
 一方貨幣は、これと全く逆の原理で運動しているように思われる。現代の貨幣の9割は、物理的実体を持たない帳簿上のものだが、それがかえって貨幣の本質的なあり方を浮き彫りにしている。
 
 帳簿上の1000円は、誰が、どの帳簿に、どんな字で書きこんだかによらず、1000円に変わりはない。また1000円札は、大人が持とうと子供が持とうと、人格者が持とうと犯罪者が持とうと、同じ1000円である。
 
 すなわち、貨幣は差異を消す方向に作用している。
 
 また、Aを売って貨幣を得て、それでBを買う、という活動を考えてみてもよい。貨幣は、AおよびBと交換されている。これはつまり、どのようなものとも交換できるということだ。これも、貨幣が差異を消す方向に、ないし媒介する方向に作用しているためだ。
 
 このように、企業経営と貨幣は全く異なる論理に基づいて運動しているように思える。企業には顔があるが、貨幣には顔が無い。そしてこの論理の違いは、きわめて重要だと僕には感じられるのだ。
 
 そこでまず、連続的性質と分節的性質の違いがどこにあるのかを、厳密に明らかにしたい。そのうえで、これらの対照的な論理にもとづく諸要素の運動が、どのような帰結をもたらすかを考察したい。まずは、連続的性質からはじめよう。
 
 そもそも連続的性質とは何か。それは、線形性を持っていることだと言えるかもしれない。ある要素の1つの状態(実数における「10」という状態、貨幣における「500円」という状態など)を分割し、あるいは結合させることによって、その要素の他のいかなる状態をも作り出せるという性質である。
 
 たとえば、実数という要素における「10」は、10等分することによって「1」という状態を作り出せる。そしてこれを結合することによって、すべての自然数を作り出せる。同様にして、原理的には「10」の分割と結合によってすべての実数を作り出せる。
 
 では、連続的性質をもつ要素における「分割」は、分節的性質をもつ要素における「分節」と、何がどう違うのか。言葉の上では同じようなものだが、これらには何か決定的な違いがあるのではないか、と感じられるのだ。
 
 具体的に考えると分かりやすいと思う。実数の「10」を二つの「5」に分けるやり方と、言葉によって虹の色を7色に区分するやり方は、何かが違いそうではないか。