俗論の恐ろしさ -現実から俗論が生まれるのではなく、俗論が現実を作る-
前回(http://basils.hatenablog.com/entry/2013/06/27/094932)書いた、自己成就的予言について考えたことの続き。
前回は、就活競争やマーケティング、貨幣といった現象を自己成就的予言として考察した。ここから分かるのは、「俗論」の恐ろしさだ。
ふつう俗論は、現実が偏見や思い込みで歪められることによって構成されると考えがちだと思う。
つまり、まず先に現実がある。それを偏見や思い込みといった歪んだレンズを通してみると、現実が歪んで見える。すなわち、現実を誤って理解してしまう。このとき俗論が生まれる、というのがまあ常識的な見解だ。
もしこうして俗論が生まれるのなら、俗論は確かに誤りなので有害だが、それでもあくまで現実が先行している。俗論は現実を後追いする形で形成されるので、有害ではあっても現実にはそれほど影響しないはずだ。
ところが、自己成就的予言という概念が教えるところによれば、俗論はこのような単なる「現実の誤解」にはとどまらない。むしろ俗論は積極的に現実に働きかけ、現実のほうを俗論に適合するように変質させてしまう。これこそが、自己成就的予言だ。
たとえば就活競争。普通に考えれば、「就活が激化している」という客観的現実が先に存在していて、それを観察した人が「就活が近年激化しています」と言う。もし就活が激化しているという現実は存在していないのに、誰かが「就活が近年激化しています」と言えば、それは俗論だ。
ところが、新聞に「就活の激化」という記事が載ると、全国の就活生はそれを信じて行動することになる。すると、激化する就活の中で他の就活生に負けないよう、みんな気合を入れて準備をすることになる。その結果、本当に就活は激化することになる。みんなが前より準備するようになったのだから。
このように、俗論は当初誤りであっても、社会に共有されることをとおして自らを現実化してしまう。常識的な見解に従うなら、俗論は有害でこそあれ現実には何の影響力も持たない。
しかし実際には、俗論が流布することそれ自体が現実を変化させる。結果的に当初は俗論にすぎなかったものが正しくなってしまう、という奇妙な事態が生じる。
俗論は、正しくないがゆえに笑って無視しうる言説などではない。それ自体が1つの社会的現実なのだ。
よく、「○○は単なる俗説で~」といったように、何の価値もないものとして俗論は退けられる。しかしこうした考え方は、俗論それ自体が確固たる社会的現実であるということを見落としているため、改めたほうがいいと思う。
「就活が激化している」という俗論自体が現実に反していたとしても、「『就活が激化している』とみんなが信じている」ということは明確な現実だ。
俗論を笑うものは、俗論に泣く、ということかもしれない。