basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

社会最適なモチベート法について―ゼロサム型と小確幸型

 今日飲み会に行った帰り道に、思うところがあったので書いてみる。
 
 今日高校の友達と久しぶりに飲みに行ったのだけど、そこで話されたある話題に正直辟易していた。同窓生たちの現況についてである。誰それがどこに就職した、誰それは三浪の末大学に入った、誰それは院に行く、誰それはもう論文を書いた・・・普通ならそれは楽しい話だし、話している当人にも悪気はなかったと思う。しかし、僕はそういう話を聞いて何とも言えない暗い気分になったのだ。
 それはおそらく、「自分も彼のように結果を残せるだろうか」「自分も彼のように立派な仕事に就けるだろうか」といった不安を、無意識のうちに感じてしまったからだろう。自分で言うのもなんだが、僕は世間的にはけっこう良いとされる高校に通っていた。こういう高校でなければ、同窓生の就職譚に心から祝福を送ることができたと思う。しかし、偏差値の高い高校にいたことで、そうした同窓生たちと自分を比較して焦燥感を覚えるという悪い癖をつけてしまったのだろう。家に帰ってからもしばらくは虚脱感に囚われていて、「学習性無力感ってなんだっけ?」と検索してしまったほどである。
 
 この一件には、人をモチベートする方法の1つが典型的に表れていると思う。僕はそれを、ゼロサム型モチベート法と名付けたい。この方法は、社会の人間の大多数からやる気を奪い、少数の人間のやる気を爆発的に増進させる。実際に起こっている現象とは異なっているが、大多数から少数へのやる気の移転が生じているようなものである。したがって、社会全体のやる気の総量は変化しない。ゆえに、「ゼロサム型」なのである。
 受験競争や就活は、典型的なゼロサム型モチベート法による競争である。しかしそれだけではない。「大学在学中に司法試験に合格した」「サークルを3つ掛け持ちしつつ、外資系企業でインターンをしている」というようなたぐいの話は、全てこの方式によってモチベートされている。もっと言えば、ラノベ執筆のような趣味的領域にまで、このモチベート法は及んでいるのである。(ラノベ執筆に関しては、ライトノベル作法研究所http://www.raitonoveru.jp/というサイトを参照されたし。自由奔放に見えるラノベ作家の卵が、いかに無気力や苦悩と闘っているかを思い知らされるであろう。)要するに、ゼロサム型モチベート法はあらゆる分野において観察されるのである。
 
 ゼロサム型モチベート法を作動させれば、確かに少数の人間のやる気は爆発的に増進する。寝食を忘れて勉強したり、サークルにインターンにゼミにと奔走することが可能になる。しかしこのやる気増進は麻薬のようなもので、長期間続ければ身も心もボロボロになってしまうだろう。仮にそうならなかったとしても、大多数の人間のやる気が大きく減少しているのは事実である。飲み会から帰った僕のように、「自分にあの人のような結果が残せるのだろうか」「自分はこんな勉強することはできない」と悶々として、手も足も動かなくなるのである。
 
 これが、ゼロサム型モチベート法を採用した社会の帰結である。社会全体として、これが最適かと問われれば、それは断じてあり得ない。
 
 ではどうするか。そこでもう一つのモチベート法を導入する。仮にそれを、小確幸型モチベート法と名付ける。小確幸とは村上春樹の造語で、「小さな、確実なる、幸せ」を意味する。他に適切なワ―ディングを思いつかなかったから採用したが、もとの「小確幸」とは意味がずれる。小確幸型モチベート法が意味するのは、社会全員のやる気を少しずつ増大させるようなモチベート法のことである。「みんなが、少しずつ」というニュアンスはもとの「小確幸」と似ているが、「幸せ」でなく「やる気」に注目している点が大きく異なる。
 この場合、ゼロサム型モチベート法に比べると上位者のモチベート度合いは劣る。つまり、両方式で最もモチベートされる人のモチベート度合いを比べると、ゼロサム型の方がより激しくモチベートされているということである。しかしゼロサム型と異なり、小確幸型では、社会全体のやる気の総量は確実に増大する。
 小確幸型モチベート法が、どんな分野で典型的に見られるかを指摘することは難しい。それは社会の前面に出る勇ましい活動ではないはずだからである。しかし例えば、家族と話して明日の仕事へのやる気をもらうというのは、小確幸型モチベート法の一例だろう。
 
 小確幸型モチベート法を作動させても、やる気の爆発的な増進は起こらない。それは病的なものだからである。小確幸型モチベート法は、健康な範囲でしかやる気を増進させない。1日のうち6時間は寝る。食事はきちんととる。散歩したくなったら散歩する。そのうえで、「よしやるか」という気分が生まれる、というのが小確幸型モチベート法のあり方である。一人一人のやる気の増大は微々たるものでも、社会全体のやる気の総量は増大する。それも大きく増大する。社会全体としてみれば、明らかにゼロサム型より小確幸型の方が優れているだろう。
 
 
 
 誤解を招きそうだが、僕は競争原理を否定したいわけではない。競争はしたければすればいい。ただしそれが、「負けたら居場所がなくなる」という福本マンガ的焦燥感ではなく、「勝ちたい、勝ってまだ見ぬ境地に辿り着きたい」という情熱に裏付けられている限りにおいて。前者はゼロサム型モチベート法に、後者は小確幸型モチベート法に依っている。
 
 また、僕は「寝食を忘れて勉強する」とか「サークルにインターンにゼミにと奔走する」といったこと自体を否定したいわけでもない。問題は、こうした活動がどのようにモチベートされているかである。どんな分野にも「小さな天才」はいて、小さな天才たちは自分にぴったりの活動に没頭するだろう。おおいに結構なことで、これは言うまでもなく小確幸的モチベート法の帰結である。
 
 そして起こりうる最大の誤解は、ゼロサム型対小確幸型の対立を、市場原理主義対古き良き共同体原理主義と同列のものと見なされることである。この2つは全く異なる対立軸である。古き良き共同体にだって、ゼロサム型モチベート法は存在する。「ムラ社会」と呼ばれる強い束縛は、その典型だろうと思う。そして市場原理は、小確幸型の採用による「みんなで、すこしづつ」のやる気の増大を効率的に生じさせるためにもってこいの原理だとさえ思う。
 
 社会の大多数の人間のやる気を奪う思想が、道理にかなっているわけはない。人間の思想は人間のためにあるのであって、自然物のように客観的な事実として厳然と存在するわけではない。その意味で、通俗的な意味でのダーウィニズム、弱肉強食こそが動かしがたい社会の掟だという考え方には賛同できない。それは社会の半面でしかないと思う。
 
 たとえ敗北主義だと言われても、長い目で見れば小確幸型モチベート法を採用するのが社会全体では最適である。
 
 結局僕は、飲み会の席でくらい、胸がホカホカする明るい話をしたかっただけなのである。「誰それはどこに就職した」ではなくて、「僕は将来どんなことをしたい」というような。例えそれが、若気の至りどころではないこっ恥ずかしさにまみれていようとも。