basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

「知は多面体」というメタファーが社会科学の方法論に与える示唆について

 野中郁次郎・紺野登『知識創造の方法論 -ナレッジワーカーの作法-』という本に、「知は多面体」という比喩があった。この比喩を見て、社会科学にさまざまな方法論が乱立していることの意味が何となく分かった気がした。
 
 社会科学を勉強し始めて、さまざまな方法論や観点が乱立していることに目まいを感じていた。結局どれが正しいのか?これらは相互にどういう関係にあるのか?それがまったく分からなかった。
 
 たとえば経営学にも、大きく分けて2つの有力な方法論がある。一つ目が、実証主義アプローチ。経営現象は複数の変数からなるシステムだと考える。主に統計分析をツールとし、構成概念間の因果関係を事実を通じて証明しようとする。いつでも、どこでも、普遍的に成り立つ「経営の法則」を見つけようとするアプローチである。
 
 二つ目が、解釈学的アプローチ。経営現象は人々の行為の連鎖によって成り立っているシステムだと考える。主にケーススタディーをツールとし、一回限りの現象が生じたプロセスを、事実の主観的な解釈・意味づけを重視することで解明しようとする。
 
 しかし、これらの方法論のうちどれが正しいのか、両方正しいとしてもこれらはどういう関係にあるのか、について触れた文献はほぼない。それで、迷ってしまうのである。
 
 そんなとき、「知は多面体」という喩えを知った。これは、知にはさまざまなアプローチが許容されるし、またさまざまなアプローチがあるべきだ、ということではないか?
 
 多面体の一つの角度から把握できる形は限られている。様々な角度から多面体を見て、かつそれらを総合することで、初めて多面体の全体像が分かる。同じことが、知にもいえるのではないか?というのがこのメタファーの意味だと思う。ある現象を一つの角度から、つまり一つの方法論のもとで見ても、把握できる真実は限られる。様々な方法論で見たものを総合することで、初めて現象の全体像が分かるのではないか?
 
 しかしその一方で、個々の方法論は両立しない。これは、多面体をある角度から見ているときには別の角度からは見れないようなものである。
 
 つまり、たくさんの相互に異なる方法論があることは望ましい、歓迎されるべき事態なのではないか?方法論は絶対的に正しい一つに集約すべき、という主張は、「多面体を見る正しい角度は、一つだけしかないし、その角度から見れば多面体の全てが分かる」という主張と同じくらい馬鹿げているのではないか?「次元」が違う以上、そんなことはできるわけがないのである。