basilsの日記

イノベーションについて考察するブログ。その他、アルバイト日誌、感想文、雑感など。

生命体としての経済活動、そのレーゾン・デートル

 ポストモダン的な消費社会論や、高度資本主義批判論は、生き物に対して「お前の本来の、より自然な姿は死んでいる状態だ」といっているようなものではないか?生き物に対してそういうことを言うのは、正論ではあるかもしれないが何か間違っている。経済活動を生命体だと捉えると、そういう不自然さがこれらの主張にはあると思う。
 
 愛らしい生き物に対して、「お前の本来の、より自然な姿は死んでいる状態だ。お前を構成している原子は、非生物の一部であった期間の方が生物の一部だった期間よりはるかに長い。お前もあっという間に死んで、土に帰るのだ。それが自然な姿だ。」と宣告するのは、正論かもしれないが何かが間違っている。彼らは現に生きているのであって、何がより自然か、本来の姿かなどは彼らにとって全く本質的ではない議論ではないか。
 
 
 問題は、経済の「生命活動」と人間の「生命活動」の間に齟齬が生じていることであって、それはどちらかを否定すれば解決するような問題ではないと思う。これらはどちらも生命活動には変わりないから。